ロード家 03 - 兄弟
同じように、刃を交え始めた時とはずっと早い調子で打ち込み合う。
オールは相も変わらず爛々と輝くフレイムの眼を視界の端に認めながら、漆黒の刃が太陽の光で作る閃光を、もちうるだけの集中力を全開にして追っていた。
記憶の中のお前は、いつも笑っていて、いつも楽しそうで。
無表情なお前も、怒ったような顔も、哀しそうな顔も、そんな顔も、いつものお前らしくない。
だからなにがあったんだと疑ってしまうのは、
―――兄として許されたことじゃないのか。
時折、紅が、ちらついた。フレイムが舌なめずりをしたのだ。
「いいね」
と、悦に酔った笑みでその言葉を漏らした。
しかしオールにとっては、やはり腹立たしい事でしかなかった。
(このいらだちは、何だ)
ただ単純に、見下ろされてるような気がしていらだつだけなのか。それとも、戦いを愉しむフレイムの考えの所為か。不可解な言動を垣間見せる、そのことか。厭に微笑みながら容赦なく剣を振りかざす、そのことに胸を掻き毟るようないらだちを覚えるのか。
「まただ」
「……、」
(しまった…!!)
思いの外近くに聞こえた声で、フレイムがすぐ近くにいることに気づく。あんな事を考えていたら、知らないうちに意識は外界から逸れて漠然としたところへ向いていた。黒彼岸の刃が、墨華夜叉で防ぎきれないほど近くまで来ている。
(いや、防げる…………ッ!!)
防いでみせると、思った。
ギュィィィイイィンと、軋むような金属音が、半分朦朧としていたオールの意識を引き上げる。
変な打ち込み方をされたらしい。ただの無理な姿勢で刃を受けただけでは、こんなに神経が痙攣することはない。そんなことが今まで無かったからだ。しかし事実、手がしびれて感覚がないから、フレイムの意図的な打ち込み方が原因だろう。しびれた腕は重い。足が上手く動かず、躰がぐらついた。未だ耳元で、先ほどのフレイムの一言が木霊している。
どうして、気づけなかったのだろうと、ふと自問した。
答えは自分でも分かっている。集中できていなかった。それだけのことだ。
土を蹴る音がする。打ち込んで飛び退いたフレイムが、迫ってくる。狙うのはたぶん右脇あたりだ。左の逆手で持っているから、胸板の真ん中も狙いのうちだろう。
オールは、上手く柄を持てないので、右逆手で持って重力に任せ刃をぶら下げる。左手の甲を添える。
「打ち込みが甘かったんだな」
フレイムがほつりとつぶやいた。刃が交わる。
「くっ!!」
(やはりキツいな…!!)
しっかり柄を握れていないでいるから、反動が余計に大きくて躰にくる。
フレイムは右の順手に持ち替えた。刃は、内側を向いている。打ち込みに力の入らない、無駄な持ち方だ。左の首筋が狙いだ。
思えば先ほどかのフレイムの妙な行動からずっと、彼は急所ばかりを狙ってくる。刃がある場所に刃先を向けてこない。急所というのは、実戦では狙い所、訓練ではぎりぎりで避ける所。刃を交えるための稽古のなかで、急所を狙い合うのは危険だ。
これは稽古なのだと、言い聞かせた自分を思い出す。実戦ではないと、自分の言葉への返答は至極愚かな言葉だった事を思い出す。
刃とは、武器とは、戦いにおいて隙を埋めるもの。急所を守るものではない。
ついでに付け加えると、刃にとって急所を狙う能力は二の次だ。戦う者は気力と武器によって隙を埋めて心と躰を守り、相手の泣き所に狙いをつける。しかし自他の安全を第一にする“訓練”では、そうではないのだ。
オールは、そういう理解をしている。師である父親に習ったことを理解し、咀嚼し、深く感動し、賛同し、その考えを踏襲している。
オールは右手の柄を精一杯握りしめた。自分たちは、今、修行をしているのだと、修行とは自他の安全が総てなのだと、目の前のフレイムの耳にねじ込んでやりたい。
金属がぶつかる音が響いた。それから擦れる音が耳を焼いた。後方に飛び退く。耳障りな音が脳内に反響する。フレイムは、一瞬少し前にかがんだようだ。
「かっ…はっ…」
地面に、血の滴る音がする。
「は、…」
鎖骨のあたり、首筋の一番柔らかいところを斬られたのだ。噴き出す血液の量は思いの外少ない。動脈は斬れなかったようだ。いや、あえて切らなかったのか。
「致命傷じゃないようだな…」
フレイムに目を遣る。
「…ふ、」
前屈みになって、小さく肩で息をする彼も、右脇から左肩に傷があった。
「はは…」
痛いのだろう、苦笑いのように顔を歪めて、さも可笑しそうに笑う。オールはいっそう不快に思った。
「フレイム、解ったろう。血の流れる修行は無意味だ」
戻るぞ、とまでは言えなかった。首の傷がひどく痛い。空いた手で首を押さえる。
するとフレイムが、躰を持ち上げた。
「は、…無意味なものか」
「…何…?」
彼は、相変わらず笑う。
「俺が無意味なものなんかにしない」
あはは、とそれでも、苦しそうに笑う。そのときだ。
「……――――!!?」
傷口の痛みが次第に引いていく気がした。手を離して、あごを引いて、そこを見る。オールは、驚いた。
「なんだ、これは――――」
傷口が青い光を放っている。いや、細胞のように微細なものが、傷口で光っている。見ていれば、オールはさらに驚いた。少しずつだが、傷が塞がっていく。少しずつ、光が消えていく。
「なんだ、」
オールは、フレイムを見遣った。すると彼の傷も青く光っている。
「フレイム、」
自分の傷と、彼の傷とを見比べる。小さくなっていけばいくほど、目に見えて傷のふさがりが早い。オールは、自分の傷が完全に塞がり、痛みが消えるまで、何も言えなかった。
「傷をー――…」
治したのか、と言いかける間もなく、目の前を何かが覆った。
(―――…ッ!!!)
オールは反射的に目の前の影を弾き飛ばした。『信』を使ったのだ。フレイムが、前触れもなく斬りかかってきたから、無意識の所作とは言え正当な防衛だろう。
(剣圧が、首筋に届いていた)
首筋を左掌で撫でる。振り下ろされた刃はすぐ近くまで来ていたのだろう。オールは、一瞬の合間に味わった背筋の凍るような冷たい風を、掌で思い出した。
そして同時に思い出す。
(あの剣圧の角度…――)
痛みは鮮明に覚えているのに、そこに傷はない。
再び悪寒がする。先ほど斬られた場所と、全く同じ場所で、角度で、斬られようとしていたのだ。オールは全身が己の意思から離れていくのを感じた。空気を吸う。胸がつかえて、息の仕方が解らない。躰の形がおぼろげだ。何をすればいいのか解らなくて、何もしないでいると苦しい。とりあえず多くの空気を口の中に入れたら、それだけ露骨に肺と気管がその存在を主張した。
汗が、どこからともなく吹き出ている。
「魔法は無しだって言ったろ」
また、低い唸りのような声が聞こえた。
「……」
オールに斬りかかった、フレイムの声だ。
彼は繰り返す。
「魔法は無しだって言ったろう」
「正当防衛だ」
「今は」
オールの言葉を遮るような荒げた声で言う。
「剣だけの戦争だ」
オールは、目を瞠った。彼から5・6メートル離れて立つ弟は、感情の薄い、しかし決して冷酷さなど微塵も感じられない表情をしていた。そしてその瞳は、逆光で少し薄暗く見えるせいだろうか、橙色に爛々と光り、何か興味深いものでも見つけた幼い子供のような、恐ろしく幼稚な瞳だった。
「戦争だと…」
幼稚だからといって、あどけなさがあるわけではない。それは彼の台詞のせいでもない。ただ子供が、ただの特別でない興味深さをたたえた、その後で何かしら失敗して泣きを見る類のモノだ。
瞬間、オールの喉の奥で燻っているいらだちは、怒りへと色を変えた。
「戦争だと」
「強くなるための通過点は戦争みたいな戦いだって理論は間違ってる」
しかし、フレイムがオールの言葉を遮った。
「そう言いたいんだろ。解ってるよ。それは俺もそう思うから」
フレイムは、表情の一つも崩さない。その構えた容姿がいっそすがすがしくて、沸いた怒りは少しだけ冷めてきた。相変わらず弟の考えと行動にはいらだつのだが、怒りを助長するような感情には至らなかった。
フレイムは、淡々と流れるように言葉を続けた。
「でもさっき言ったんだけどね、兄貴。俺は」
そこまで言って、フレイムは柔らかく笑った。慈しみに溢れた、微笑みだった。
「ちゃちな稽古には飽きたんだ」
彼は、それからゆっくりと刃を下ろし、斜め後ろまで引いた。そのときには既に、フレイムの顔は飢えた獣のような眼をしていた。
「……それを言うなら、お前も呪術を使っただろう」
「ああ、…そういえばそうだな」
「そういえばだと?」
魔法は無しだと言った張本人を前に、燻っていた疑問をぶつけてみた。少し前、本気でやれと睨
まれた、あのすぐ後だ。言葉を解せないものの、そのある種の声は間違いなく人が呪を詠む時のものだ。怪訝な顔つきを向けるフレイムは肩を竦めた。眼はしかし、戦いに飢えた獣だ。
「あれはあってないようなものだから、俺は呪術とは解釈してないんだ」
「……は?」
―――――
「フレイムッ」
呼び掛けても、返事がない。
フレイムはまっすぐこちらを見ているのに、声に反応する素振りは微塵も見えない。
剣を交える速さが、次第に速くなってきた。オールは、釈然としないが、今この状況に流されることにした。判然としないものは、その流れに入り内側から内包するものを暴いてゆけばいい。父にそう習った。
ただ、そうして当分の目的を忘れてはいけない。
フレイムが左逆手で構える。応えて左手で構える。
大地を蹴る。
「……ッ!」
振りかぶった剣先が、フレイムの腹をかすめた。
(…いや、これは)
オールは剣ごしの感触に戦慄する。しまった、と剣を引き戻す。しかし、フレイムがにやりと笑う様にさらに戦慄する。狂っているようにしか見えなかった。
「フレイム…!」
オールの鋒が、確実にフレイムの腹を切り裂いた。感触から考えても、さきほどの傷よりかなり深いのではないだろうか。
「ハッ…!」
フレイムが何かを堪えたような息を吐く。
しかし、彼の顔は痛みを耐えているというよりも、笑いを堪えているような形相だ。
(……構わないという訳か)
不信感と殺意が脳の片隅を過る。ここでフレイムを心配しても、それはフレイム自身が厭がるだろう。迷いながらも構わず再び斬り込もうと構えたとき、一瞬、フレイムが動きを止めた。狂喜に満ちた表情が消えていく。左手に刀を持ち、右手は腹を抱えていた。その右手で、ゆっくりと顔面を覆う。
(何だ、)
身震いがするわけでもない、恐怖ではない何かで体が固まっている。
刀を構えたまま動かないオールをフレイムの紅い左眼がとらえた。そして、ゆっくりと顔を覆っていた右手を下ろしていく。
無表情、眼差し、紅い、紅い眼。不気味さが、初めてオールの胸ぐらを掴む。その瞬間。
「―――…」
ズズ、と這いずるようにそれは、現れた。
実際に音が聞こえたわけではない。感じたのは、身を斬るような空気と不気味さだけだった。耳に入るのは、自分の吐く息の音だけだった。
フレイムのすぐ傍ら、背後。
紅い、しかし焔のように色が揺らめく紅いものが、幾何学的な模様を描きながら、時々液体のように流れながら、形を成していた。
線形に三角形や短い線や点が並び、入り乱れて判りづらいが、明らかにそれは人の形だ。まとまった丸い形から少し下がった位置から、左右に離れたところに二本のまとまった棒が下方にぶら下がっている。その棒の先には、"指"と思われるものがある。そしてその下の位置に、大地から二本の"脚"を生やしている。
もう一度見上げる。口と眼とおぼしきものが真っ紅な中に穴のようにある。
(人…なのか?)
その口が、歪んだ。
“――――――!!!”
それが口角を上げて笑ったのだと気付く。音は無い。それは立体には見えないから、発声器がその喉にあるような有機体ではない。つまりはそれは生物ではない。
しかし、明らかにそれは笑ったのだ。
オールはその場から数十歩退がった。
“―――!”
今度は素早くその口が動いた。
動きを思い出して、言葉を読み取ろうとしていると、また動き始めた。
「――逃げんなよ!!」
「…ぇ」
オールは唖然とした。
その口がそう言っていたのかはわからないが、その言葉がやけに口の動きと合致していた。
「何をした」
弟、フレイムのその言葉が。
「一体何をした、フレイム!!」
「悪りぃな、兄貴」
フレイムは、やはりにっこりと、笑うだけだった。
フレイムは右逆手に刀を持ち替え大地を蹴る。同時にそれは大地を滑り、瞬く間にオールの背後についた。フレイムを見失わないように首を回してもその全体像は見えない。死角に入ったのだ。
(……これが狙いか…)
何かによって攻撃手が2人に増えれば、単純に戦力は倍になる。倍になれば、挟み撃ちは当然の戦法だ。
躰をその傾けて視界の両端に2つの姿をとらえ、『信』を張りつめた。2方向からの攻撃に対するためだけではない。それが何なのかを知るためだ。
それが口を引き結ぶ。やはり口角は笑っているように見えた。
すると差し出した右手の先に、紅いものが集まっていく。ずるずると集約されていく様に、違和感を感じた。そうしてできた形は、フレイムの得物、黒彼岸と同じ、大刀の形。
(変形して思い通りの武器を生み出せる。といったところか。)
フレイムが構えた。
(来る)
身を屈めて一歩下がり、影を2つ、完全に視界に入れる。振り下ろされる刃を片方避け、片方を自らの刃で受け止める。避けた方には後ろをとられた。オールは身を翻しそちらからの攻撃に備え、止めた方からの攻撃を避ける。そうするとまた後ろをとられる、その繰り返し。間髪を入れず打ち込んでくる2方向からの攻撃に、防戦一方だ。
(やはり剣技だけでは追いつかないか)
オールにとって、これはあまりにも分が悪すぎる。
(…『信』を、使うしかない)
フレイムがこの“修行”を“実戦”だというのなら、なおさらだ。
もう一度構える。フレイムとその紅を交互に見遣り、眼を閉じる。
「……っ」
途端、風が動く。フレイムが動いた。オールは『信』を、張り詰める。
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